東京最後の聖域 「にっぱら」
  
鎮魂歌
(スミクボのカスミザクラに捧ぐ)



 人と同じように木にも寿命はある。日原で千年ヒノキと呼ばれている「倉沢のヒノキ」にしても、あるいは屋久島の縄文杉であったとしても、いつの日にかその生命に終わりは来る。ただ、人と比べて圧倒的に木の方が長寿を誇るために、巨樹と呼ばれる木が倒れた様子を目の当たりすると、なにかその現実を受け入れ難い想いに囚われるものである。

 2000年全国巨樹巨木林調査において、当時日原は819本の巨樹巨木を環境省の巨樹データベースに登録した。私個人もその中の相当数を発見・調査したものだが、2008年12月現在、それらの巨樹巨木が全て健在というわけではない。その調査以降に森へ入ると、登録された巨樹が倒伏している場面に数回遭遇している。倒れた巨樹を観察すると、そのほとんどが痛みを抱えており、これが寿命だったと納得できるものばかりであった。

 
 スミクボのカスミザクラ健在の頃


2006年6月20日



2006年6月20日



2004年1月11日


 
 ところが最近、見た目に全く痛みがないにも関わらず、いつの間にか倒伏してしまった巨木がある。
「スミクボのカスミザクラ」
その主幹は3.1mを誇り、株立ちを含めると4.1mにもなる当時日原において最大の山桜であった。2008年11月15日、私がこのサクラのそばを通った時には間違いなく健在であった。それから一月あまりが経ち、12月20日に再びそこを訪れた時に私は只ならぬ異変に気付いた。

 その道を歩いていると、まずこのサクラの黒っぽい枝が小さな尾根越しに目に飛び込んでくる。ところがこの日は見えない。もしかして私は見逃してしまったのかと思い、しばらくその枝を探してみたのだがやはり見つからない。胸騒ぎのする中そのまま前に進み、サクラを見下ろせる場所に移動するとそこには最悪の結果が待っていた。



2008年12月20日



2008年12月20日



2008年12月20日


 
  ショックだった。8年前に私が見つけたサクラである。金岱山に登る時にはいつもその姿を確認して、その先の登山に歩を進めたものである。一人の時も、大勢の人をガイドした時も、必ず挨拶をしてそこを通るような、そこにいて当たり前の存在だったのだ。私は動揺しながらも道を外れ、ゆっくりとサクラのそばに近づいてみた。

 谷側に前のめりに倒れても、枝先が折れている以外は全く樹形に変化はない。3mを超える幹は、恐らくまだ生命があるのだろう。倒れる前となんら変わることのない、逞しい筋肉質のままである。悲痛に暮れながらもサクラの周りを一周してみると、倒伏の原因がなんとなく分かってきた。それは、このサクラの育った環境にも一因があるように思えた。


 
生命線とも言える根が切れる



石と土が混じり合う土壌で成長した



逞しい筋肉質の幹だった


 このサクラは、元々谷側に大きく傾いて立っていた。スミクボ右岸という冬には日も当たらない厳しい環境に生を受け、他の季節に僅かに降り注ぐ日光を求めて、力の限り体を伸ばした結果がこの特異な樹形だったのだろう。しかし、この大きく傾いた巨体を山側で支えていた、まさに生命線ともいうべき太い根が切れてしまったのだ。それは、この環境で生きる木の限界を見た思いがした。

 倒れたサクラの根元を見てみると、石と土が混ざり合った土壌でけして豊かとはいえないものであった。本来日当たりの良い場所に生育する「陽樹」サクラが、なぜかこの不向きな環境でこれほどまでに大きくなれたのかを考えると、むしろよくぞここまでという想いに頭が下がった。そして、その生きた苦闘の歴史が、この山桜らしからぬ樹形にも表われていたように思う。

 しかし本来「木」とは、成長していく過程で全体のバランスが崩れてくると、自らの枝を落としてまでも生存を計ろうとする生き物である。ただ、このサクラはそうすることもなく、一瞬にして生を終えた感がある。それも全く衰えを見せない逞しい樹形を残し、まるでサクラの花のように潔い最後であった。


 
倒れたサクラの梢があった場所



冬芽もしっかり付いていたのに・・・


 ふと上を見上げると、そこにはぽっかりと開いた空が見えた。サクラが日光を巡る熾烈な生存競争の中で、一生を掛けて勝ち取った領空ともいうべき空間であろう。主を失った空はどこか寂しげに見えた。そしてこのサクラは、来年の春も当たり前に花を咲かせる準備をしていたようである。枝先にはしっかりと冬芽があり、サクラ自身にも突然の出来事であったことが窺える。悲しみを誘う冬芽の膨らみだった。




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