東京最後の聖域 「にっぱら」

樹齢千年の真偽

 
  現存する世界最古の木造建築である法隆寺は、創建当時天然総ヒノキ造りであったことをご存知であろうか。伽藍の材料は、樹齢千年から千三百年のヒノキを伐採したものであるらしい。宮大工の間では、「樹齢千年の木は堂塔にして千年は持つ」と言われているが、実際、法隆寺は千三百年の時を経過した今も補修を繰り返しながら、我々に古代建築の在りし日の姿をほぼそのままに誇示し続けてくれている。

 天然のヒノキとはもともと尾根に多く、しかも岩がむき出しの痩せた土地を好む性質があり、木の成長は他の樹種に比べて著しく遅い。その証拠を示すものとして木には年輪と言うものがあり、その間隔の積み重ねで成長の過程を窺い知ることができるのだ。ところがこの天然ヒノキと、日当たりのよい山腹に植林された人工林のヒノキの年輪とでは、同じ木でありながらもその密度の違いに驚かされる。それが同じ幹の大きさ同志であるならば、、天然の方が年輪の数にして5倍ほども多く刻まれている。まさに似て非なるものというべきであろう。


 

  今、私の手元に木の枝を輪切りにした一枚の板がある。
 「倉沢のヒノキ」
地元では「千年ヒノキ」とも呼ばれており、巨樹の里・奥多摩町を代表するヒノキの落ち枝から採取したものである。この年輪たるや肉眼で見る限りこれ以上不可能と思えるほどに目が詰まっており、肉眼でも年輪の計測は不可能である。そこでルーペを使って調べてみると、中心から3.2cmの幅に150もの年輪が刻み込まれているのだ。つまり、単純に計算すると直径6.4cmの枝の成長に150年もの歳月を要したということになる。

 このデータが、直接幹そのものに当てはまるものではないが、ちなみに幹周6.3mのこのヒノキを円柱として考えると、その直径は約2m、そして半径1mの幹の内部に刻まれた年輪は、落ち枝のデータから換算すると4687年という、とてつもない数字をはじき出すことになる。 もちろんこれが樹齢だと思えないが、「倉沢のヒノキ」は1000年という説もあれば、600年ほどだろうと言う人もいる。しかし、直径6.4cmの枝の成長に150年である。たかが600年で幹周6.3mの巨樹に育つわけがないと思うのだが・・・。だから千年、という根拠もないのだが、それでも個人的には1000年以上ではないかと考えている。


 






  倉沢というこの地に、いつ頃から人々が定住するようになったのかは定かではない。室町時代の延元三年(1338年)の板碑が残っていることから、それ以前には人々の生活が営まれていたことになる。このヒノキのある尾根筋の奥と、倉沢川の対岸にある鍾乳洞は、修験道「倉沢権現」の本宮とされていて、このヒノキはその御神木でもあるという。つまりこれは、人々が定住を始めた当初から畏敬の念を持たれていた巨木だったということではないだろうか。もしそうでなければ、建築材として超一級の天然ヒノキがこうして現代まで残されるはずがないではないか。現に、奥多摩町に残された他の天然ヒノキは、倉沢のヒノキの半分以下の幹周でしかないのだから。


 







 今や過疎化の波に飲み込まれ、住む人さえも居なくなってしまった倉沢の里。その歴史が人々の記憶から忘れ去られる時がいつかは来るだろう。しかし、それはあくまでも人間の歴史でしかない。人々が暮らす遥か以前からここに根付く「倉沢のヒノキ」は、これからもただ静かに、何事もなかったかのように、痩せた尾根の上で自らの歴史を毎年積み重ねていくことになるだろう。人々に祀られた神から、森の神に還るために。



 

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