東京最後の聖域 「にっぱら」 
  
華麗




  桜病という病をご存知だろうか。桜の木に発生する病気ではなく、人の心に住み着く厄介な病である。桜愛好家の間ではよく知られているが、年が明けて春が近づくに連れて落ち着きがなくなるのだ。要は、桜の開花が待ち遠しくて仕方のない、桜に取り憑かれた人ことである。

 しかし確かに桜には、人を虜にするだけの魅力が溢れている。それはこの日本において、古代より連綿と受け継がれた感性の花であり、多くの文化や精神をも育んできた、まさに国の花であることがおのずと証明をしている。




 願わくは 花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ   (西行)





匂へどもしる人もなき桜花 ただ一人見て哀れとぞ思ふ   (慶政上人)



 まして山に自生する山桜は、平地で咲く桜以上に春の訪れを実感させてくれるものだ。この花が咲けば、もはや凍え震えた冬は過去のものであり、山々の新緑を呼び覚ますために現れた森の妖精のようでもある。春に咲く木々の花の中でも、その美しさと気品においては一歩抜けていると感じるのは私だけであろうか。

 山桜は日当たりの良い場所を好む陽樹であり、ブナやミズナラの巨木が生い茂る深い森にはほとんど見られない。崩落地や尾根などの痩せた土壌でも、光に恵まれていれば、そこに根を張って生き延びていく逞しさも持ち合わせているが、反面巨木になる山桜は稀で、ほとんどのものはそれ以前に陽樹としての役目を終えてやがて朽ちていく運命にあるようだ。山桜も美人同様、木としては薄命なのかもしれない。


 


  花の色は移りにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに   (小野小町)



 ところで、はなやかさを意味する言葉として「華麗」があるが、私はそもそもこの言葉とは、桜を指したものではないかと思っている。「華」とは本来「花」のことであり、「麗」とはうるわしいという感情を意味する。

 桜という花の特徴の一つに、その散り際の美しさがある。この日本人を魅了して止まない「花吹雪」こそ、私には「麗」の言葉が最も相応しいのではないかと思う。つまり華麗とは、満開の時の「華」やかさと、散り際の切ないほどに美しい「麗」しさを併せ持つ桜の花言葉に思えてならない。


 
散る桜 残る桜も 散る桜   (良寛)



  満開の桜を見上げる人々の顔は、誰しもがにこやかで華やいで見える。日本人は、この僅かひと時の喜びのために、桜を一年間大切に守っているかのようだ。3~4月の人生の節目や門出にあたるこの季節に、数ある花の中で人々に待ち望まれて咲くのは桜以外には考えられない。これは世界でも類を見ない、人と花の濃密な関係ではないだろうか。

 4月後半に山を歩いていると、頭上からハラハラと白いものが落ちてくることがある。見上げると、まだそこには山桜の花が残っていて、通りすがりの私にその花びらで存在を教えてくれているような気がする。優しく歓迎されているようで、なんとも嬉しくなってしまうものだ。




敷島の大和心を人問わば 朝日に匂ふ山桜花   (本居宣長)



 

世の中に絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし   (在原業平)



 また街の中を歩いていたり車で運転している時にも、不意に花吹雪に包まれることがある。風に舞う桜の花びらは、「麗」をもって最後の見せ場を人々に演じて見せてくれる。そのありがたさを感謝すると共に、桜の国に生まれた幸せを感じる瞬間でもある。


 ところで、私は桜吹雪を最後の見せ場と書いてしまったが、桜の花のお楽しみはこれでおしまいではない。
「落花の雪に踏み迷う 片野の春の桜狩り・・・」
これは、日本古典文学の「太平記」第二巻に書かれている日野俊基の道行文の有名な冒頭部分である。桜の花が散り、その花びらが地面を覆い尽くす美しさを落花の雪とし、その上を歩いてしまうのが躊躇われるという気持ちは、時代は変われど同じ日本人なら誰もが共有できるものではないだろうか。


 桜とは贅沢な花である。一輪の花そのものは可憐であり、満開に咲く木は華やかに匂い立ち、散る花びらの麗しさは他の花とは比べるまでもなく、そして歩くのを躊躇うほどの落花の雪で締めくくる。平安時代の歌人、在原業平の詠む「世の中に絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし」とは、世の中に一切、桜というものがなかったら、春をのどかな気持ちで過ごせるだろうに・・・という嘆きにも似た歌である。つまり、在原業平も恐らく「桜病」を患っていたに違いない。





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