東京最後の聖域 「にっぱら」

森の灯台


 
 危険な気象状況を安全な場所で冷静に見ていると、なかなか美しいものだと思うことが多々ある。例えば、カミナリを展望のきく高層ビルから眺めれば、スケールの大きな見事な芸術なのだろうし、また、そこで暮らしている人には悩みの種の大雪なども、積雪のない地方の人にとっては、驚異の天空ショーなのかもしれない。

 濃霧。これもまた自分の居る場所によっては、大変危険な自然現象である。登山をされる方なら誰もが知っている「ホワイトアウト」とは、霧で見通しが利かず、前進も後退もままならない遭難と隣り合わせの危険な状況をいう。まして、それが初めて行った山であれば、余程の経験を積んだ人か脳天気の人でない限り、心臓が早鐘のようになることを覚悟しなければならないだろう。

 
 
日原本谷


  しかし、これが熟知した山となると話がちょっと違ってくる。つまり、霧そのものが直接人体に害を及ぼす性質のものではないので、落ち着いて霧を観察できるのだ。濃霧といっても霧には流れがあり、その密度も濃淡が微妙に入れ替わる。自分の居る場所と目印さえ把握していれば、濃霧の山でもけして移動は難しいものではない。

 
私自身、お気に入りの森の中でそんな状況に遭遇したら、実は高まる興奮を抑え切れない。春夏秋冬、どの季節であっても濃霧の森というのは、とても現実とは思えない不思議な世界を見せてくれる。それはまるで、「雲の中の森」である。白と黒が織り成すグラデーション、幻想的に浮かび上がる柔らかな木々のライン、その全てが見慣れたはずの森を一変させてしまう。写真を撮る者にとって、これ程魅力的な被写体にはそうそうお目に掛かれないものだ。私でなくとも、きっと誰もがこの光景を目の当たりにすれば心を動かされるに違いない。


 
ヤケ小屋尾根



天祖山中腹


  しかし、もし知らない森の中で私が道に迷って濃霧に包まれたとしたなら・・・と想う時がある。恐らく、回りの景色を美しいとか幻想的などという目で見ることもなく、遭難という現実が脳裏を過りパニックに陥るのかもしれない。ただただ霧を恨めしく思うこと請け合いである。このように、人は自分の置かれている状況で随分と意識が変わるものである。濃霧という気象条件でも、それを美しいと見るか恨めしいと思うかは、その人の経験と知識に依るところが大きい。極論すれば、命の保障があるかないかの違いでもある。

 
オロセ尾根



オロセのミズナラ


  私が「熟知した山なら濃霧でも大丈夫」と思うのには、私なりの根拠がある。私が入山するのは、奥多摩町の日原山地に限られる。もちろん、この地域の全てを知り尽くしているわけではないが、ここを訪れるのには写真を撮る以外にもう一つの目的がある。

 それは、日原という日本有数の巨樹・巨木林の調査を兼ねているのだ。つまり、私は巨樹のある所を中心に歩いていると言っても過言ではない。濃霧に包まれた時に頼りになるものといえば、目の前に見える僅かのものでしかないが、それが見覚えのある巨樹であればこんなに心強いものはない。その木があることで、自分の居る場所やこれから進む方角を正確に把握できるのだ。いわば「森の灯台」なのである。そんな灯台を、私はこの山に何百と持っていることになる。これこそが私の言う根拠であり、膨大な時間を掛け歩いて築き上げた安全保障のネットワークでもあるのだ。


 
ハンギョウ尾根


  霧の森は確かに美しい。しかし、霧とは視界を妨げる危険な現象でもあり、山でも海でも人にとって本来厄介なものであろう。特に濃霧の中を移動することは、一つ間違えば命取りにもなり兼ねない行動である。例えば薔薇の花の枝には鋭い棘があるように、美しいものと危険とは案外隣り合わせだったりするのかもしれない。果たして美しい女性にも、同じように危険はつきものなのだろうか。



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