東京最後の聖域 「にっぱら」 
 
紅葉のメッセージ



  山々に秋が訪れると、毎年私には不思議に思うことがあった。
 「木々は、何故紅葉をするのか・・・」
科学的な紅葉のメカニズムのことではない。一体何の目的があって、木々は緑の葉を散り際に鮮やかな赤や黄色に染めるのか、ということだ。一般的に木々の葉が色づく頃には、その年の「葉っぱ」本来の仕事をほぼ終えた状態だと言える。光合成という木にとっての命を支える活動は、葉の中にある葉緑素という成分なしでは考えられない。しかし、その役目を終えたはずの葉っぱにいささか醒めた言い方をするならば、全くの無駄とも思える「色付く」という行程が残されている。

 特に落葉広葉樹の森は、それ自体が総合芸術でもあるかのように見るものに強烈なインパクトを与える。その見事で華麗なまでの調和美は、木々にとって果たして何の意味も持たないものであろうか。いや、もしかすると、そこには何者かに対して、ある意図を持ったメッセージが込められているのかもしれない。

 

野陣尾根



ヨコスズ尾根


 そこで一つ、ある時私は大胆な仮説を思いついた。木々の一年のサイクルを、人の、それも農家の生活に当てはめてみたのである。春の種まきに始まり、田植えを経て、盛夏の暑さを乗り切り、実りの秋に収穫を迎えることが稲作だとすれば、その中で木々の紅葉に当たるものは何か?

 それは、稲作そのものには一切関係ないように見えて、しかし農家にとっては欠かすことのできない一年のうちでも最も大切な行事の一つ。そう、「祭り」である。今年の収穫を神に感謝して、来年の五穀豊穣を願う秋の祭りこそが、あの紅葉の華やかさに匹敵する。



川乗谷



ブナ黄葉



ダンコウバイとカエデ


 
 つまり、木々達にとっての紅葉とは「祭り」ではないだろうか。春から秋まで懸命に働き続けた我が身を、色とりどりの葉っぱで美しく装い競い合う、そして日の光、雨の恵を神に感謝する一年に一度の盛大な「祭り」ではないのだろうか。このように考えると、木々達の紅葉に込めたメッセージとは「何か」が窺い知れる。

 ところで、紅葉には当たり年とそうでない年がある。目を見張るほどに美しい当たり年とは、木々が充分に冬を乗り切るエネルギーを貯え盛大に祭りを繰り広げた証しであり、逆にそれがやや不充分だと、木々の祭りもその彩りの冴えを見せることが出来ないのかもしれない。
 
 

名栗沢のイロハモミジ



ヨコスズ尾根


 「紅葉は死化粧」という人がいる。しかし、私はこの表現を好まない。人も木も、一年というサイクルの中で生きていて、「祭り」も「紅葉」も毎年繰り返される歓喜の時に他ならない。再び訪れる春を信じて、今この時に激しく燃焼しているだけなのだ。

 そういえば、紅葉の終わった晩秋の森の雰囲気は、祭りの後の寂しさにどこか似通っている。そんな森の中にいると、私は何故か深いため息をついてしまう。「宴の後」の余韻のなせる業であろうか。
 

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